詩のない詩集

ここには詩を書く予定だったのだが

野家啓一はいい加減すぎる

野家啓一「歴史を書くという行為――その論理と倫理」(『歴史/物語の哲学』5-6ページ)から

この方向転換は、「すべての哲学は〈言語批判〉である」(『論理哲学論考』4.0031)というウィトゲンシュタインの言葉によって端的に表明されている。だが、そこでは命題と事態、語と対象の指示関係は自明の前提として疑われてはいない。いわば、言語と世界とは予定調和的な対応関係(写像関係)に立っているのである。それゆえ、フレーゲやラッセルを含めて、第一の言語論的転回を推し進めた哲学者たちは、基本的に言語を、実在を指示する透明な媒体として捉える、実在論的言語観を保持していたと言ってよい。

よくない。

「実在を指示する透明な媒体」とことばをとらえていたなら、なぜ「宵の明星=明けの明星」という文に認識的価値があると考えたのか、なぜ「意義」と「意味」の区別を導入したのかまったくわからない。

あと、フレーゲが命題の指示対象としたのは真理値だ。